「本当の自分って何だろう?」そんな自分らしさへの問いや、
人間関係にまつわる悩みの一助となる「分人主義」という考えをご存じでしょうか。
提唱者である小説家の平野啓一郎さんに、
分人主義の観点から見る「生きづらさ」の手放し方についてお聞きしています。
←vol.1はこちら
Text : Akari Fujisawa
Edit : Ayumi Sakai
「好きな分人がひとつでもあれば、
自分を全否定しないで生きられる」
1998年ごろから2010年代にかけて、自死率の増加が社会問題となり、僕自身も身近な人たちを亡くしています。深刻なこの状況を、自己肯定と自己否定の感情面から向き合いたいと思うようになりました。
自死は、究極の自己否定行動です。自己肯定の感情が希薄になっている、つまり自分を全否定している状態です。そういうときに、分人を円グラフのように客観的に見ることができれば、自分自身を全否定せずにいられるのではと考えました。
「自分を好きになりましょう」というのは、なかなか難しいものです。だからこそ、自分をたったひとつの「個人」で考えず、「Aさんといるときの自分」「Bくんといるときの自分」というように、一人ひとりの分人として切り分けてみる。そうすると、「このときはちょっと好きな自分でいられる」という分人があるかもしれません。
もし、誰とも関われない、どこにも居場所がないと思うのであれば、具体的な活動について考えてみるのはどうでしょう。会社にいるときの自分は嫌だけれど、散歩しているときの自分はそんなに嫌じゃないなと感じる人がいるかもしれません。
本を読んでいるとき、「推し」の動画を見ているとき、ゲームをしているとき、SNSを見ているとき。活動で考えてみると、意外と「それをやっている時間は好き」と思えるものがありませんか? それこそが「好きな自分」でいられる分人です。わずかでも、ひとつ、ふたつと見つけることで、そこを足場に生きていけたらと思うのです。
僕は学生時代、詩や小説を読んでいるときの自分は嫌いではありませんでした。必ずしも人との関わりである必要はなく、ゲームのようなバーチャルの世界に分人を求めてもいいと思います。ただし、その分人だけに捧げず、多重な関係に帰属することはリスクヘッジの面でも大切です。そういう意味でも、自分を客観視して考えられるのも分人のいいところかもしれません。 どのような状況のなかで、どういった自分になっているのかを把握することは、自己肯定と自己否定を考えるうえで、とても重要だと感じています。この考えも、分人主義に思い至る動機のひとつになりました。
「他人の好き」から「自分の好き」を
見つけるのはごく自然なこと
好きなものがどうしたって見つからない人もいます。それはそれで、いいんです。すぐ見つけなくちゃいけないものでもないし、あるとき突然、雷に打たれるように出会うこともあります。待つしかない、けれど、ただ待っているだけでも見つかりません。
だから、ちょっと人が集まるようなところに行ってみるとか、飲み屋に行くとか、本に興味があるならオンライン読書会に参加してみるとか、小さく動いてみるのをおすすめします。ぼんやりAmazonの画面を眺めているだけでも、よくわかないけれどすごい熱意のレビューに出会うこともあるし、そこから興味を持ってもいい。「たったひとつの好きを見つけるぞ」と、難しく考えないで、なんとなくでいいと思いますよ。
人の熱度に巻き込まれてみるというのも、いいかもしれません。 社会学者ルネ・ジラールの「三角的欲望」という理論があります。人間は、ある対象に対して一対一で好きになることはなく、たいてい第三者が良いと言うことで、その対象がよく見える。恋愛で、友だちが好きだと言うのを聞いているうちに、自分も好きになってしまう、という例の現象です。
一直線に好きなものを探そうとすると見つかりませんが、よいと言っている人を経由することで見つけやすくなります。
「周囲の『好き』に流されるのは
自分の軸が定まっていないのではありません」
SNSのような周囲の声に影響されて「好き」を見つけたときに、「本当の自分の好きなものに出会えていない」「人の言うことに左右されている」などと言われるのだとしたら、それこそが、「本当の自分」という幻想ですよね。
「本当の自分」があって、本当はこういうものが好きで、と自分を限定し、固定しています。そうすると、いろいろなものに対してオープンになれないんです。自分の好きなものはこれだと言い切れる人は、見方を変えれば柔軟さがないし、好きな世界が狭いとも言えます。
僕は、「好きな小説10選」みたいな質問に答えられないんです。気分や時期によって変わってしまう。決められないですね。
「役に立つ」のは誰のため?
役立たずな人間なんて、どこにもいない。
好きな分人があっても、自分が何の役にも立てていないと悩む人にお伝えしたいのは、多くの人の考える「役に立つ、立たない」という概念は、巨大な資本主義社会のなかで役に立つかどうかだということです。一部の人に役立つという状況なのに「公共的に」「みんなのために」役立つ人のように言われています。これでは非常にストレスですし、そもそも人間を有用性の観点で判断するのはおかしなことです。
ただ、役に立つという感覚は、否定できないものでもあります。家族や友人が困っていたら、なにかしてあげたいと思うし、してもらったらやっぱりうれしい。感謝されると、自分の存在が必要だと実感できる。そういう意味で、僕たちはみな対面レベルのコミュニケーションにおいて、誰かの役に立っているし、それは肯定的に捉えられています。役に立たない人間なんていないんです。
詩人のボードレールは、「役に立つ人間というのが、自分にはいつも醜悪に感じられていた」と書きましたが、学生時代の僕はとても感動しました。当時は、自分が役立たずな気がしていたんですね。ボードレールなんて浪費癖で生活が破綻し、当時の資本主義が発展してゆくフランス社会では、相当な『役立たず』です。でも彼は、その後200年以上に渡り、孤独な人たちの心をなぐさめ続ける詩の傑作を生み出しています。
役に立つかどうかは、限られた状況での他人の勝手なジャッジですから、別の場所に移れば役に立てることはたくさんあります。
もし、今の場所が苦しいと感じているならば、物理的に距離をおいてほしいです。分人の構成比率を変えるのです。会社であれば上司にかけあって部署を移動するのもひとつですし、転職したっていい。
ただし、どうしようもないときは、まずは自分自身の身を守るために緊急避難することを大切にしてください。考えたり、なにか行動を起こしたりするのはそのあと。最優先は、自分の人生を持続していくことです。
「嫌なことがあったら、
落ち込むよりムカついて人に話してみる」
僕自身は、嫌なことがあると落ち込むよりもムカつくことにしています。落ち込むと、どんどん気が滅入ってきますが、腹を立てるとエネルギーが湧いてきます。
パワハラまがいのことをされたら、落ち込まずに「あのパワハラ野郎!」と心の中で怒ったり、馬鹿にしたりしたほうがいい。人に当たるのは良くないですが、勝手に一人で怒っている分には、誰にも迷惑が掛かりません。そして、「こんなことがあってね」と、周囲の人に話しまくるんです。「ひどいねー」と言われると、そうだよな、ひどいよなと、だんだん元気になってきます。そのうち、どうでも良くなってくるんです。あるいは、然るべき行動にも出るべきでしょう。
現代社会は、SNSの言葉も落ち込みの原因になりますが、僕は基本的に言いっぱなしで反応は見ません。10人中9人が褒めてくれても、たったひとりの罵倒で嫌な気持ちになることも、やっぱりありますから。そういうときほど、落ち込むより『なんだ、こいつ?』とムカつくことにしています(笑)。あと、その酷いことを言ってる人のアカウントを見に行くのも有効です。もしその人が、全方位的に悪口を言い散らしている人だったりするなら、なんだ、そういう人なのか、こちらが特に悪いわけでもないのかと納得できますので。
もちろん、深刻な問題であれば相談する必要がありますし、分人という概念が、どんな悩みにも万能なわけではありません。でも、気持ちは白か黒かではなくグレーゾーンの広いものですから、考え方で救われる部分もあります。
嫌な気持ちになったり、落ち込んだりするのは自分の中のひとつの分人であり、自身の本質すべてではありません。健康を維持しながら、自分が好きでいられる場所や人を見つけていけたらいいですよね。