「夫なし、子なし、冷蔵庫なし、定職なしの
“楽しく閉じていく人生”を模索中」を掲げるフリーランサーの稲垣えみ子さん。
物質的でも金銭的でもない、本質的な豊かさを問い続ける稲垣さんに、
不安に流されず生き抜くヒントをうかがいました。
Text : Akari Fujisawa
Edit : Ayumi Sakai
何もない小さなわが家を、大きく豪華にする考え方
「仕事も辞めちゃったからひとりぼっちだし、やることもない。あんなに頑張って働いて、大きな家に住めるようになったのに、なにもかも手放して、こんな小さい家に住むのか……と、さすがに気持ちが下向きになりました」
でも、落ち込んでいても始まりません。稲垣さんは、考え方を変えてみようと思いつきます。
「家に書斎がないからカフェで仕事をして、ガス契約をやめたから銭湯がマイ風呂で、冷蔵庫がないから近くの個人商店がわが家の保管庫。本は読み終えたらブックカフェに持っていけばそこがわが家の本棚になる。
自分の家には何もない分、外に頼って、地元のお店とつながるようになると、街全体が大きなわが家のように思えてきたんです。居心地のいい仕事環境に、大きなお風呂、新鮮な食材、たっぷりの蔵書。最初は悔しさを紛らわすために思い込もうとしていた妄想でしたが、だんだんと心からそう感じられるようになりました」

すべてを自分で抱え込むことが「豊か」なのだろうか?
「自分の街が、大きなわが家」。そう考えると、今度は行動も変わります。カフェも銭湯も、古本屋も豆腐屋も、自分にとってなくてはならないわが家の一部ですから、ずっと元気に、変わらず在り続けてもらわねばなりません。
稲垣さんは、銭湯で顔を合わせる常連客に、笑顔で会釈や挨拶をするようになりました。買い物は、特売品を求めて大きなスーパーに行くより、少々割高でも地元の個人商店で世間話ができるような関係づくりを選択。どうしたら相手が喜んでくれるだろうかと人生で初めて考えるようになったのです。
するとだんだんと、顔見知りが増え、稲垣さんが自転車で走っていると、朝は「いってらっしゃい」、夕方は「おかえりなさい」と声をかけてもらうようになりました。なんだか家族のようです。
「びっくりするくらい、ご近所での人望が高まっていったんです……! すべてを自分で抱え込んで、誰にも頼らずひとりで何もかもできることより、家に何もなくても、みんなに助けられながら生きる方が、確実に安心で豊か。会社員の頃には、そんなふうに思うようになるとは考えもしませんでした。
だからもう、家に素敵なものをたくさん集めたいという気持ちはありません。ちょっと贅沢していいものを食べようとか、奮発して洋服を買おうという気持ちにもならない。お金で自分の生活を豊かにしたい、買うことが豊かだという考えがなくなったんです。それはお金や所有に価値を感じていた会社員のままでは見つけられなかったことだと思います」

自分をしあわせにできなくても、他人をしあわせにすることはできる
豊かに、しあわせに生きたい。きっと誰もがそう願って暮らしているはずです。「ご自愛」「自分をしあわせにできるのは自分だけ」といった言葉を見聞きする機会も増えました。しかし稲垣さんの「しあわせ」を求めるベクトルは、自分ではなく他人に向かっているといいます。
「自分がしあわせになりたいと願うのはもちろん悪いことではないし、わたしも、ずっとそう生きてきました。でも、自分をしあわせにするって難しいんですよね。他人に、自分の思い通りに行動してもらうなんてなかなかできませんから。
それよりも、相手にどうしたら喜んでもらえるか、自分の立場に置き換えればわかる気がしませんか。自分がお店の人ならば、セールのときだけ買いに来る人より、普段からコンスタントに買いにきてもらえるほうがうれしいだろうなとか、こんなふうに挨拶してもらえたら気持ちがいいだろうなとか。
そしてその通りにすると、みんながわーっと喜んでくれて、そんな人たちに囲まれている自分もしあわせになれます。誰にでもできて、確実に、間違いなく自分がしあわせになれる、いちばん近道の方法なんです。
会社員時代は、ヨガ哲学の本に『人にやさしく』と書いてあっても、『そんなことしていたら競争に負けてしまう!』って思っていました。でも、お金や競争が中心にある会社員時代の価値観の外に出てみれば、簡単にできることだったんですね」
稲垣さんいわく、「自分の行動は、エコーのように返ってくる」。世の中は変わらない。そう思っていたけれど、ほんとうにそうでしょうか。いま自分がいるこの世界は、案外自分の力で変えていけるのかもしれません。
続くvol.3では、生きづらさをチャンスに変える稲垣さんの考え方、そして大人になって出会い直したピアノの世界についてお届けします。