「夫なし、子なし、冷蔵庫なし、定職なしの
“楽しく閉じていく人生”を模索中」を掲げるフリーランサーの稲垣えみ子さん。
物質的でも金銭的でもない、本質的な豊かさを問い続ける稲垣さんに、
不安に流されず生き抜くヒントをうかがいました。
Text : Akari Fujisawa
Edit : Ayumi Sakai
生きづらさや矛盾が、自分を変えるきっかけになる
稲垣さんが生まれた1960年代は、日本は高度成長期のど真ん中。人口はどんどん増加し、ものを作れば飛ぶように売れた時代です。努力し、競争に勝ち抜き、良い学校、良い就職先に入るのが正解だといわれる世の中でした。
「子どもの頃から、それを疑うことなく努力をしてきました。幸運にも良いといわれる大学や会社に入ることができましたが、過酷なこともたくさん。ハラスメントという言葉もなく、本当にワイルドな世界。それでも落ちこぼれちゃいけないと上がっていくことを目指し続けてきたのだと思います」
苦しさや違和感を覚えても、泣きごとを言わず努力して結果をだすこと。それこそが正しいたったひとつの道だと信じてきたのです。
「それもひとつの価値観です。ただし会社という狭い枠組みの中での話であって、世の中の価値観はそれだけではなかったんですよね。
それに気づくまでに、ずいぶん遠回りをしたかもしれません。そうは言っても最初からすべてをスマートにはできないし、年齢も大きいと思います。特に若いうちは、上を見たいし、のぼっていく時期も必要です。あの人がやっていることが自分はできない、この人が持っているものを自分は持っていないと、周囲がどうしても気になる時があるのも当然だと思います。
だから生きづらい時期があってもいいと思うんです。もちろん、心をすり減らして病んでしまうほどでは困りますが、わたしの場合は、狭い世界の中で必死に戦ってきた自分の苦しさや社会に対する矛盾が、『じゃあ、自分は本当はどうしたいのか?』というエネルギーになりました。それが節電や退職につながり、いまの生き方になったのだと思います」

頑張り続けなくていい。未知のピンチもワクワクする存在
「自分を周囲と比べて生きづらさを感じたり落ち込んだりするのは、若くてエネルギーがあり頑張っている証拠でもあるんじゃないかと思うんです。だからそれはそれでいいんですよ。でも歳を重ねると、みんなと同じ方向を見て頑張り続けることに、ふと違和感を感じる時期がやってくる。
わたしも人生のゴールを見据え、この先の時間を考えたときに初めて、『もうこれは十分やってきた』と手放せるものが見えてきました。先日60歳になりましたから、これからもさらに手放すことになるはずです。どんどん下っていくし、できないことも増えていくから。実際仕事も、これまでなら1日でできたことが、3日かけてようやくなんとかなるという感じになってきました。
なにかを達成しようと頑張ることは悪いことではないけれど、何もかもやろうとするかは見直していきたいです。年齢とともにエネルギーは減ってくるし、どうしたって変わっていくことを受け入れざるを得ません。でもそこで、まったく違う価値観にたどり着けることもあります。試行錯誤して、矛盾を感じて、そこから自分で気づいていけたらいいですよね」
過去への執着や他人との比較、そして未来への不安。それらを手放し、身近な人とつながりあって生きる稲垣さんは、とても健やかで、なにより楽しそうに見えます。
「収入が減っても、年齢と共に思い通りにならないことが増えても、きっとなんとかなると思えることそのものがしあわせですね。『ないこと』はちっとも怖くないし、むしろ『ない』の向こうにある可能性を信じているんです。この先、さらなる大きなピンチがやってきても、その時はいまよりもっと新しい自分が開けていくはず。そう考えると、未来は不安よりもワクワクしてくるんです」

誰かの評価はいらない、純粋な自分のためのピアノ
取材の後、店の一角でピアノを弾いていただきました。曲はショパンのプレリュード45番。ピアノは今、稲垣さんが一番時間を割き、夢中になっていることです。
「子どもの頃と違って、この歳になると指の動きも上達も、どれだけ練習してもまったく思ったようにはいきません。現代の生産性や効率、コスパ・タイパといった価値観とは真逆の行為。でもこれが、驚くほど楽しいんです」
目標はなく、ただ、今この瞬間を楽しむこと。遠い先を追いかけず、目の前と精一杯に向き合うこと。他者からの意味や価値を問われることなく、自分の内側から湧き出すよろこびを味わえるのは、なんとしあわせなことでしょうか。
「そうはいっても、こうして人前で弾くと、格好悪いところを見せたくない、上手く見られたい、失敗したくない……ってまだまだ、欲がムクムクと出てきちゃいますね。いや~難しい、奥の深い世界です(笑)」