お客様から「元気がないときに、おすすめの本はないですか?」と
よく訊かれるというペンギン ブックストア店主の立石さん。
そんな時、立石さんは「元気が出る本」ではなく
「元気がなくても楽しめる本」を紹介しているのだそう。
気持ちに寄り添ってくれて、硬くなった心をほぐしてくれる。
そんな一冊を、毎月セレクトして独自の視点で紹介する人気連載。
真面目に悩んでいることが
どうでもよくなる妄想だらけの
キシモトワールドへようこそ
この本を手に取って開いているお客さまがいると、私はこっそりとその方を観察したくなってしまいます。最初の一文を読んで、思わず微笑んでしまうところを見たいからです。その一文とはこれです。「もしもこの世にレジでいちばん遅い列に並んだ人が優勝する競技があったら、私は確実に国体レベルで優勝する自信がある。」
ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』、ルシア・ベルリン『掃除婦のための手引き書』など、数々の海外小説の翻訳家として知られる、岸本佐知子さんのエッセイ集です。
日常の、ふと心の琴線に触れたものやできごとから、岸本さんの妄想はどこまでも自由に羽ばたいて(しばしば暴走して)いきます。
ダース・ベイダーは夜寝るときどんな姿になるのか。
違う道を行って、カーナビが気を悪くしていないだろうか。
今どきの冷蔵庫やトイレがしゃべるように、自分の臓器もしゃべって不調を知らせてくれないものか。
高いタワーのてっぺんに建設作業員が置き忘れた弁当箱などを撃ち落とす、無生物専門のスナイパーになってみたい。洞窟の奥で、「サザエのふた屋」を開いてみたい……。
妄想の力で、平凡な日常は一変します。とんでもない危険が隠れているのを発見したり、奇跡のようなできごとを経験したり。エッセイというより、上質な短編小説を読んでいる気分にさせてくれる筆力は、たくさんの文学に触れてきた岸本さんだからこそ。
思わず声を出して笑ってしまうようなおかしみの連続でありながら、「なぜ、自分はこんな自分なのだろう」という岸本さんの悲しみがふと垣間見えることもあり、それがまたなんともいえない魅力になっています。
ところで、この本は私たちをたっぷり楽しませてくれるけれど、役に立つことは何も書いてない、と思ったらそれは大間違い。「ああもう駄目だ今度こそ本当にやばい」というとき、気持ちが楽になる素晴らしい方法を教えてくれています。それは「あの宇宙人」を思い浮かべる、という方法。誰もが一度は見たことがあるでしょう、小さい宇宙人が西洋人の男性ふたりに手をつかまれて連行されている写真を。彼の気持ちを想像してみよ、と岸本さんは言うのです。
「私は悟る。自分の置かれている状況など、あの宇宙人に比べればお花畑のピクニックに過ぎないと。」
『なんらかの事情』
岸本佐知子・著/筑摩書房
ミランダ・ジュライやルシア・ベルリン、リディア・デイヴィスなどの
海外小説の翻訳者として知られる、岸本佐知子のエッセイ集。
第23回講談社エッセイ賞を受賞した『ねにもつタイプ』や、
『気になる部分』『ひみつのしつもん』など多数の作品があるが、
どれもエッセイでありながら、ホラーのようなファンタジーのような奇妙な味わいが話題に。
キシモトワールドの「中毒になった」という読者も多数。
この本にはクラフト・エヴィング商會の
違和感たっぷりのイラストが添えられ、さらに楽しませてくれる。